すきとかきらいとかでなく、、、との指導は、何を意味しているのか。

人間の集団だから、“仲が良い”“あまり良くない”とか、相性の面で“好き”“嫌い”があるかもしれない。ある意味で、人間としてそうした感情があることは当然といえる。無理して考える必要もない。しかし、好き嫌いにとらわれて仏道修行をおろそかにするのは愚かです。(中略)
 「松野殿御返事」では同志への誹謗について実に厳しい御指導があります。(同235ページ)http://www2s.biglobe.ne.jp/~masajun/sintyaku3/2004032320.txt 20040323付SPより抜粋

【人間関係について】
たぶん、わたしをよく思っていない人間は、わたしの欠点をよく知っていて、その欠点は、そうじが下手ということで、それを逆手に私が落ち込んでいるときは、余計落ち込むことをいい、運気が上昇しているときでも、何か理由をつけて、私の反対なことをする。

ということは、好き嫌いというのは、対極のようで、対極ではないということになる。
なぜなら、好きなら嫌いになる可能性があるし、嫌いと意識しているなら、好きになる可能性も大いにあるはずだ。
しかし、悪友が親友になったという話は、一人ぐらいしか聞いたとがない。
女性の場合は、感情に流されやすいので、確率限りなく0%である。
なぜかと考えたときに、「男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ」(御書P956)との御聖訓の通り、おんなは感情に流されやすいので、一ついやなところがみえると全人格を否定するほどいやになってしまうのは確かで、恥のために命を捨てるということではなく、感情に流されずに仕事をこなすという男の人が羨ましくて祈っていたりしたら、男細胞が発生し女細胞と衝突しておかしくなってしまったときもあった(苦笑)が、他人の言行に一喜一憂しないようになったところはある。

さて、人間関係で不愉快を感じていたとき、(育まれた環境は大いに影響されることを前提として)相手が
境界を意識しているのであればすぐ治る。
'人類皆兄弟'的公私混同の人こそ、悪気がないので迷惑を伝えるのに相当な根気がいる。
しかし、迷惑を伝えるのではなく、自分がそれを受けるか受けないかは自由なのだという分別がついてからは気にならなくなった。悩みを見下ろせるかどうかであり、自分を変えるという結論。
しかし、世間体もどきの世間低では信心以前の問題である。いや仏法は道理だし、世法を包括すると蓮祖聖人は仰せであるから、信心で乗り越えられない壁はない。だから、雑念でも愚痴でも何でも祈るところからはじめることかもしれない。生理的に受け付けられないというのは、本当に苦痛だ。だからこそ、苦痛から逃れたいとガンガン祈る。それは当然の心理。
もともと自分は、好き嫌いの感情が少ない。例え嫌われているようにみえたとしてもただ不愉快なだけなので、それなりの理由がある。だから、その原因が解決すれば、愉快になるという私の持論です。