価値論2から

・美・利・善とは。
一、美的価値=部分的生命に関する感覚的価値
二、利的価値=全人的生命に関する個体的価値
三、善的価値=団体的生命に関する社会的価値

・カントの価値論は「真 善 美」
牧口会長は真理は人間の幸福にとって価値ではない
とのことで、真のかわりに「利」を価値とした。
利とは要は 経済的に豊かなこと、事業などでで儲かること。

・カントの「真・善・美」は、時系列。
真→善→美という順で、年とともに大切な価値が
発展していくとした。

・牧口の「利・善・美」は、並列。

・「真」を価値から除外して「利」を加えたのが牧口先生の非凡なところ。
真理というのは本来価値であるはずがない。
真理というのは客観的に認識されるものであるのに対して価値は主観的に評価される。
例えば犯罪者にとっては法廷で証人が自分に有利な偽りの証言をすれば
その偽は価値あるものとなって真が必ずしも価値を持つことにはならない。
つまり客観的に認識される真または偽が自分にとってどのような価値を持つのかが
問題なのであって真そのものが価値ではないのである。

・「嗚呼、この不可思議の勢力や、ただに、人間の懐郷心を
刺激する吸引力たるのみならず、同時に、“男児志を立てて
郷関を出ず、学業成らずんば死すともかえらず”というごとき、
丈夫をして憤然起たしむる反発力たるなり。
しかのみならず、かれは暗々裡に絶えず笈を他郷におうの
遊士を刺激し警戒し、彼をして成功せしめずんばやまず……。
人はこれによりて奮励し立身し、栄誉と幸福とを荷うて帰らんと孜々たり。
すなわち知る。郷土の不可思議なる勢力は、吾人をして、
他日国家的、世界的の活動をなさしむる源動力たることを。
吾人が郷土におうところ、重かつ大なりと云うべし」

・牧口は、郷土を愛する心こそが、国家的・世界的活動の
原動力なのだと宣言しているのです。
郷土愛が愛国心を育むことは言うまでもありません。
牧口は、地理教育は郷土から日本、亜細亜、そして世界へと
学んでいくべきだと主張していますが、郷土愛は郷土から
日本、亜細亜、そして世界へと広がって行くものであるはずです
(必然的に、日本という郷土への愛情は、愛国心として育まれることになります)。
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・第一章 緒論
創価教育学とは人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する方法の知識体系を意味する。
人間には物質を創造する力はない。我々が創造し得るものは価値のみである。所謂価値ある人格とは価値創造力の豊かなものを意味する。
この人格の価値を高めんとするのが教育の目的で、此の目的を達成する適当な手段を闡明せんとするのが創価教育学の期する所である。

・牧口は禅宗の家に生まれ法華の家に育ったが、三谷に会うまで、仏教の特定の
宗派に属することはなかった。若いころ、内村鑑三の著書に感銘を受け、
新渡戸稲造と親交を結ぶことによってキリスト教にふれる機会は多かったが、
キリスト教の信仰にはいることもなかった。また日蓮宗の元僧侶で日蓮の教義
をもとに「日本国体学」を唱えた田中智学の講演を聞くために一再ならず
東京・鶯谷国柱会館まで出かけたが、その信奉者になることもなかった。
もちろん牧口は少年時代から日蓮の名をよく知っていたに違いない。
というのも、彼は日蓮佐渡ヶ島流罪になるさい、足をとどめた新潟県
寺泊の地に近いところに生まれ、しかも法華の家で養育されているからである。
さらに明治末年ごろから日蓮の思想を国家主義と結びつけて日蓮主義が提唱され、
青年や軍人たちに強い影響を与えていたのである。だが彼は日蓮主義に
とりたてていかれることもなかったのである。

三谷に会うまで特定の宗教、宗派と特別の関係を持たなかったからといって
彼に宗教心がなかったわけではない。参禅したり、古神道を学んでみそぎを
毎朝やったり、キリスト教会に説法をききにいったりしており、彼の宗教を
求める心はかなり強かったように思われる。・・・・・

「一大決心をもって、いよいよ信仰にはいってみると『天晴れぬれば地明らかなり、
法華を識るものは世法を得べきか』との日蓮大聖人のおおせが、私の生活中に
なるほどと肯かれることとなり、言語に絶する歓喜をもってほとんど
六十年の生活法を一新するに至った。暗中模索の不安が一掃され、
生来の引っ込み思案がなくなり、生活目的がいよいよ遠大となり、
畏れることが少なくなり、国家教育の改造を一日も早く行なわせ
なければならぬというような大胆な念願を禁ずる能わざるに至った等が
それである。」(前出、牧口常三郎全集第五巻、四四九貢)

文庫 牧口常三郎

◎すべて「牧口常三郎初代会長の価値論について語るスレ」から抜粋させていただきました。