取り急ぎ。(更新中‥)

(御書)
、僣聖増上慢にして今生は国賊・来世は那落に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し、
(「極楽寺良観への御状」p174 文永五年〔戊辰〕(1268年)十月十一日)

 と、理をもって良観を諭しています。「那落」とは地獄のことです。

また、御義口伝では

(御書)
 今日蓮等の類いは無問自説なり念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と喚ぶ事は無問自説なり三類の強敵来る事は此の故なり
(「御義口伝」p713)

(通解)
 今、日蓮大聖人及びその門下の立場は、無問自説です。その理由は、念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と喚ぶ事は無問自説ではないですか。誰から頼まれたのでもないのです。三類の強敵が競い起こるのはそのゆえです。

 と書かれています。
 この部分に関して、池田先生は「御義口伝講義」において

(引用)

 「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊と喚ぶ事は無間自説なり三類の強敵来る事は此の故なり」

 これは、折伏することが無間自説であるとの文である。邪宗教が人を根本的に不幸にしてゆくことを、本人たちは知らないのである。念仏をやっている人は、自分の宗教で無間地獄におちるなどとは思いもよらない。極楽往生でもできるかのように思っている。それを、日蓮大聖人が「念仏無間」と破折されたのであるから、その驚き、怒りたるや、大きいのは当然である。念仏や、律、真言、禅、今でいえば邪宗日蓮宗等(注:日顕宗等)が、世の不幸の根源であることを知っているのは、われわれのみなのである。だから彼らは驚き、色をなし、怨み、さまざまの迫害をしてくるのである。
 このことについて妙楽大師の弟子である智度法師は「東春」に、次のようにいっている。すなわち「俗に良薬口に苦しと言うが如く此の経は五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ故に凡を斥ぞけ聖を呵し大を排し小を破る乃至此くの如きの徒悉く留難を為す」と、この文は現在の日本の宗教界、思想界の実情にぴったりあてはまるものではないか。
 一極の玄宗とは、弘安二年十月十二日御出現の本門戒壇の大御本尊である。この大御本尊こそが一切衆生の仏種である。この仏種を知らず、目先きのことばかりにきゅうきゅうとしている凡人を斥け、いかに世間の人々から尊敬されている聖人君子のごとき人であっても、一宗の教祖であっても、かつは政治家、評論家、学者であっても、この仏種を仏種としない人に対しては、断固、その偏見、浅薄さを、叱りとばしてゆけとの指導、命令である。かかる釈迦仏法の大小乗等を、ことごとくうち破っているために、それらの人は聞くを喜ばず、斥けられたのを怒り、叱りつけられたのを恨みに思い、さまざまな留難をなすにいたるのである。
 いったい、創価学会ほど悪口をいわれた団体が、他にあるであろうか。現在は、学会のなかにはいっている人人も、多くは、かつて学会を非難し、中傷してきた人たちであった。しかし、学会に対する非難は、ことごとく無認識から生じたものであり、無定見で、たえず変動するものである。
 学会の主張は定見である。無定見の主張は、批判中傷するということには一致しても、それ以外は、ばらばらなものである。一見はなばなしく見えても、その実体は、まことに軟弱である。したがって初期のころには、無定見のほうが積極的であり、定見のほうが受け身のようにみえる場合もあるが、最後には、必らず、定見が無定見をうち破っていくものである。
 学会の主張は一貫して永久に変わらない。それは随自意だからである。
 しかし、学会に対する世間の見方が、ある場合は大きく、ある場合は徐々に、変化をきたしていることは、動かすことのできない事実なのである。
(「御義口伝講義 上」p162-163)

 と述べられています。大聖人と学会は、全く同じ立場に立っていることがよくわかります。日蓮大聖人の決意と意思は、創価学会によって命を吹き込まれ、現在に脈々と蘇ったのです。

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