アンリ・ベンクソン

現代文明の混迷を打ち破る手がかりとしてベンクソンの哲学に光を当て、安逸や停滞と決別し、強く善く生きようとする人間の能動的な意欲を鼓舞してやまない思想性は、仏法が説く「丈夫の心」と通底するものにほかならないと指摘。(第36回「SGIの日」記念提言より)

・生い立ちを見るにつけ、わたしの周りにおられる環境のあらゆる長所を織り交ぜた人物であると評します。



【 生涯 】

[ 幼少期 ]
ポーランドユダヤ人を父、イギリス人を母として、パリのオペラ座からそう遠くないラマルティーヌ通りで生まれる(妹のミナは、イギリスのオカルティストマグレガー・メイザースと結婚し、モイナ・メイザースと名乗った)。誕生後数年は、家族とイギリス・ロンドンで生活を送る。母によって、早くから英語に慣れ親しんだ。彼が9歳になる前に、彼の家族は、フランス、バス=ノルマンディー地方マンシュ県に移り居を構える。



[ 学生時代 ]
リセで古典学と数学を深く修めたあとに入学した高等師範学校では、カントを奉じる新カント派一色であった当時の教授陣への反発と、ハーバート・スペンサーの著作を熟読して受けた実証主義社会進化論の影響のもとに、自己の哲学を形成する。1881年に受けた教授資格国家試験では、現代心理学の価値を問う試問に対し、現代心理学のみならず心理学一般を強く批判する解答をしたため、審査員の不興を買うことになった。結果、ベルクソンは2位で合格する。



[『時間と自由』]
合格後、リセ教師となった彼は、教師として教えるかたわら、学位論文の執筆に力を注ぐ。そして1888年、ソルボンヌに学位論文『意識に直接与えられたものについての試論』(英訳の題名『時間と自由意志』)を提出し、翌年、文学博士号を授与される。この著作の中で彼は、これまで「時間」と言われてきたものは、分割できないはずのものを空間的な認識を用いて分節化することによって生じたものであるとして批判し、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」("durée")と呼び、ベルクソンはこの考えに基づいて、人間の自由意志の問題について論じた。この「持続」は、時間/意識の考え方として人称的なものであり、哲学における「時間」の問題に一石を投じたものといえる。



[『物質と記憶』]
その後1896年には、哲学上の大問題である心身問題を扱った第2の主著、『物質と記憶』を発表。ここでベルクソン失語症についての研究を手がかりに、物質と表象の中間的存在として「イマージュ("image")」という概念を用いつつ、心身関係という哲学上の大問題と格闘している。

すなわち、ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を持続の緊張と弛緩の両極に位置するものとして捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。



[ コレージュ・ド・フランスへ ]
1900年よりコレージュ・ド・フランス教授に就任し、1904年にはタルドの後任として近代哲学の教授に就任する。1914年に休講(1921年正式に辞職)するまでそこで広く一般の人々を相手に講義をすることになる(ベルクソンは結局、大学の正式な教授になることはなかった)。その講義は魅力的なものであったと伝えられ、押しかける大勢の人々にベルクソン本人も辟易するほどの大衆的な人気を獲得した。主にこの時期に行った講演がベースとなる『思想と動くもの』という著作で「持続の中に身を置く」というベルクソン的直観が提示されることとなる。



[『創造的進化』]
スペンサーの社会進化論から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱し、『物質と記憶』で意識と身体を論じてきたベルクソンは、考察を生命論の方向へとさらに押し進め、1907年に第3の主著『創造的進化』を発表する。これはベルクソンにおける意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで押し進めたものといえる(そこで生命の進化を押し進める根源的な力として想定されたのが「生の飛躍("élan vital")」である)。



[ 国際舞台での活躍 ]
国の内外で名声の高まっていったベルクソンは、公の場にも引っぱり出されるようになる。第一次世界大戦中の1917年・1918年には、フランス政府の依頼でアメリカを説得する使節として派遣された。また大戦後の1922年には国際連盟の諮問機関として設立された国際知的協力委員会の委員に任命され、第1回会合では議長となって手腕を振るった(当時の国際連盟事務次長であった新渡戸稲造とも面識があった)。1930年、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を授与される。

またベルクソンは自身の著作において言葉をとても大切にしながら書いていて、その文章は明快かつ美しい文章で書かれ散文としても素晴らしいものとなっており、1927年にはノーベル文学賞を受賞した。



[『二源泉』]
こうした公的活動の激務のなかでも、ベルクソンの著作を書く意欲は衰えず、1932年に最後の主著として発表されたのが『道徳と宗教の二源泉』である。この著作では、社会進化論・意識論・自由意志論・生命論といったこれまでのベルクソンの議論を踏まえたうえで、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教について「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍("élan d'amour")」といった言葉を用いつつ、独自の考察を加えている。

すなわち、創造的進化の展開のうち、エラン・ビタール、そして天才・聖人らの特権的個人によって直観される持続としての神的実在が緊張の極に置かれ、かかる特権的個人の行為を通じて発出するエラン・ダムールによる地上的持続の志向と参与を真の倫理的・宗教的行為であるとした。



[ 晩年 ]
1939年に第二次世界大戦が始まると、ドイツ軍の進撃を避け田舎へと疎開するが、しばらくしてパリの自宅へ戻っている。反ユダヤ主義の猛威が吹き荒れる中、同胞を見棄てることができなかったからだといわれている。清貧の生活を続けるも、1941年年頭、凍てつく寒さの中、ドイツ軍占領下のパリの自宅にて風邪をこじらせひっそりと世を去った。占領下ということもあって、参列者の少ないきわめて寂しい葬儀のあと、パリ近郊のガルシュ墓地に葬られた。


パンテオンに刻まれたベルクソンの碑文葬儀に参加したポール・ヴァレリーは、

“ アンリ・ベルクソンは大哲学者、大文筆家でしたが、それとともに、偉大な人間の友であった ”

と弔辞を述べて、ベルクソンを讃えている。

ベルクソン死後26年を過ぎた1967年、その功績が讃えられ、パンテオンベルクソンの名が刻まれ、祀られることとなった。

wikipedia:アンリ・ベンクソン