ぼんのう そく ぼだい

RT たぶんね彼らは、「煩悩即菩提」だけで生きているんだよきっと。偉大な法だな。(ツイッター @goodysaturの12/15のツイートから)

一般人・これから任用試験を受ける方のためにと学ばせていただきました。



「煩悩即菩提」「生死即涅槃」(「変毒為薬」)とは。

まず、トルストイの言葉から

「喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって喜ぶがよい。この喜びが何物によっても破られないように、監視せよ。この喜びが破れたならば、それはつまり、お前がどこかで誤りをおかしたということだ。その誤りを探し出して、訂正するがよい」(『トルストイの言葉』小沼文彦訳編、彌生書房)

池田名誉会長講義
 まさに、大文豪が志向した「人生の事業、人生の使命は喜び」とは、仏法の深遠な哲理に通じております。
 この歓喜を現実に涌現する方途を、私たちは実践しているのです。さらに、"この喜びを破る誤りをたずね、誤りを正す行為"とは、私たちの仏法の眼で見れば、煩悩を転換し、生死を涅槃する「即」の実践、つまり「煩悩即菩提」「生死即涅槃」、そして宿命転換の戦いといってよい。
 一切の毒を、妙法の大良薬によって「変毒為薬」していくのが創価学会の信心です。


 それでは、生死一大事血脈抄の第十二章より、池田名誉会長の講義をご紹介いたします。

煩悩即菩提・生死即涅槃---迷いと苦悩の我が身に確信と歓喜と希望を開け!


御文
相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり、委細の旨又又申す可く候、恐恐謹言。(御書P1338)


通解
よくよく心して強盛の大信力を起こして、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念しなさい。生死一大事の血脈をこれよりほかに決して求めてはならない。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、このことである。
 信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益である。詳しくは、また申し上げましょう。恐恐謹言。



講義(抜粋)
「自身が変わる」――これが仏法の根本主題です。日蓮大聖人の仏法は、「自分自身」の生命を現実に変革するための宗教です。どこまでも「私自身」であり「あなた自身」の人間革命から出発する。この一点を忘れては、日蓮仏法は存在しません。創価学会の実践も成立しません。
「あなた自身の偉大な力を自覚しなさい」「偉大で大満足の人生を確信して題目を唱えなさい」「それこそが真の血脈である」との御指南で結ばれています。


 いずれにしても、煩悩の迷いという生死の苦しみに束縛されている人々にとっては、煩悩と生死から解放された真の歓喜が得られないのは当然のこととして、成仏への確信や希望も持ちようがありません。


 むしろ私たちは、悩みがあることで真剣に御本尊に祈っていくことができます。悩みに真剣に立ち向かっていこうとする一念が、自身の生命に内在する本源的な力をより強く涌現させていく。このとき、悩み、すなわち煩悩は、既に菩提へと転ずる因としての煩悩であり、その煩悩の中に実は菩提が含まれているともいえる。言うならば、「自身を苦しめる煩悩」から、「菩提へと転ずる煩悩」へと、煩悩自身が質的に転換するのです。
 それを可能にするのが「因果俱時の妙法」たる南無妙法蓮華経の力用です。


 成仏とは人間から離れた超越的な存在になることではない。これは、戸田先生が一貫して強調されていたことです。戸田先生は、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」について、次のように語られていました。
「自分の煩悩に生きながら、煩悩のままに、安心しきった幸福境涯をつかむ生活を『煩悩即菩提』『生死即涅槃』というのです」
「なにも菩提だ、悟りだといってたいして変わったものではないのです。煩悩があればこそ満足があり、満足があるからこそ幸せを感ずる。毎日、朝起きて、からだの具合がよくて、食べるご飯がおいしくて、毎日自分のすることがうれしくて、これで困らない生活ができる。この生活が菩提です。変わったものではないのです。煩悩即菩提というと、とても変わった人間になるというような、考え違いをしないほうがよい」


「ありのまま」とは、その身のままでありながら、常に生命を磨いていくことです。現代的に言えば、人間革命の神髄の姿が即身成仏の実証にほかならない。
 要するに、「煩悩即菩提」「生死即涅槃」とは、「戦い続ける信心」の中でこそ実現するのです。


 この「煩悩即菩提」「生死即涅槃」の実践は、歓喜をもたらします。「凡夫即極」であり、「生死ともに仏なり」との境地が開ける以上の歓喜はありません。


 例えば、悩みと真正面から格闘し、本源的な智慧を涌現しているとき、それまでの苦難を包み込む、生命の大いなる底力があふれ、いつしか大歓喜の境涯が生じてきます。
 もともと、仏の生命それ自体が大歓喜に満ちているものです。究極の真理に到達した法楽が充満している。不死の境地を得て、永遠に生きる喜びが横溢している。この仏の歓喜の生命を私たちの胸奥から現していくことが、仏界涌現の実践です。


 それまで悩みや苦難に負けていた自分が、妙法の力によって、悩みや苦難に立ち向かっていく生命が自身に備わっていることを知る。広宣流布の大目的に立ったときに、自身の悩みは、仏法を証明する変革のエネルギーになることを知る。悩みに負けない自身の姿が、多くの人を励ましていることを知る。広宣流布のために「戦い続ける心」を持つことで、私たちは、我が身が本来、仏であることを知ることができます。

「自身を苦しめる煩悩」から、「菩提へと転ずる煩悩」へと、煩悩自身が質的に転換するのです。というところに深い感動を覚えた。
よって、"もの"すべてに変わるという可能性があるとするのならば、十界互具が入れ子のように存在しているのだ。それを忘れなければ、命に刻み込むことができれば、限りない希望を涌現できるのは、間違いない。