声を発することが時代を変える!?

哲学の門〜自分を知るための宝庫

人間の自我とは何か

両親との関係、学校、友人との関係の中で、"形成"された「ほんとう-偽り」「よし悪し」「美醜」についてのルールである(哲学的には真・善・美のルールという)。
これは人間だけがもつ独自のルールなのだ。
人間は社会に出ると、それぞれ自分の「真善美のルール」をもって他人と関係を結ぶ。そのさしあたりの目的は、他人の承認をうることである。

聖教新聞2011.12.9付7面

wikipedia:竹田青嗣
竹田青嗣ホーム http://www.phenomenology-japan.com/takeda.htm


哲学という学問は、短大時代に取ろうと思いきや他の履修に変えてしまったりして今の生活には程遠いものであるのが現実である。しかし、「自分を知るための宝庫」となれば話は別だ(笑)。

竹田氏のおっしゃる通り、互いの「自己ルール」を調整し合うことが人間関係の基本とあるが、その他人の承認の取り方(=振る舞い)に、自分の命が出るんだな。
一方的に上からおさえこむもの、相手の意見を聞いてそのまま飲み込んじゃうもの、相手の意見を聞かないもの、互いの調和をとるもの・・・さまざまだ。
思い込みという表現以外に「自己ルール」という言葉に出会ったのは、初めてだ。確かにそうですね。
欲望を制限するという考えは、古くさくて小さいし、人間らしくない気がする。かといって開放しすぎても、動物となんら変わりのない生活になってしまうし…。

かといって、「自己ルール」をどのように形成されるかは、ひとりでに築き上げたものではけしてない。
それを、『自分の性格や欲望が、生まれつきのものではなくて、時間と人間関係の中で"形成"された「自己ルール」の束であると考えると、まったく新しい自己理解の可能性がでてくるということ。これについてはニーチェフロイトが多くの面白い「原理」を洞察している。(聖教新聞より)』
としている。自己以外のルールのハードルが高ければ、ストレスを感じてしまうのは当然だ。
一歩外に出れば、社会のルール、交通ルール〜赤信号ではとまるなど、「自己ルール」からすると、裸のままには程遠いさまざまな障害に出くわす。しかし当然ながら、共存していくためには、不可欠なルールだ。

まず、扉を開く第一歩としては、自己ルールに対する矛盾に対して憤るのではなく、なぜそうなのかを納得するための何かが必要なのだなと思う。
それは、以外にも単純なもの、まず、自分の思いを声に発するところからしか新しい自己ルールの満足には近づけないのではないだろうか。

だからこそ、今さかんに私が呟いている「個人の小さなつぶやきの団結」で、実際に、世界を変えてしまうということもめずらしくないだろう。

しかしながら、一人一人考えが違うのは当然だ。まず、一人の声に耳をそばだててみよう。