冗語…むだな話

異本論より

話はかならずといってよいほど誤って伝わる。電話で聞いたことが、とんでもない間違いをおこす。


笑えないのは、話したことが、本人の思ってもみなかった形で活字になる場合で、だから、談話の取材には決して応じない、を建前にしている人もすくなくない。


文学的表現は物件ではなくて、現象である。


われわれは物件としての作品と現象としての作品を区別する必要がある。


現象としての作品は、反応を生じる受容者によって無限に変貌する。


しかし、それほど心配する必要はないのである。反応はさまざまであっても収斂(しゅうれん…一つにまとまること)すべきところへおのずから収斂する。


そういう単語によって綴られている表現、作品もやはり、現象として考えられるべきで、表現の意味は無限に多様な変奏の中から必然的に生れる基本のことである。

しかし、文学がコミュニケイションであることをわれわれはとかく忘れる。


どうして、送り手のメッセイジはそのまま受け手に伝わらないのか。途中に""ノイズ""が介入するからである。


われわれははっきりしないものに遭遇すると、これを合理化しようという作用が働く。それで、※十一日か十七日かよくわからないものを、十七日と解釈し、それで満足した。聞き違いだとわかってびっくりするのは、自分の解釈が誤りうるものであることを予想していない証拠である。


人間のこの補償作用は、欠けた部分を埋め合わせるときだけにあらわれるのではない。逆に不必要なものがあれば、それを棄却するときにも発動される。


人間の耳は、テープレコーダーのように、すべてのものを平等に記録するのではない。不要なものを選び出して聞いているのである。つまり、選択的であることがはっきりしている。


送り手と受け手の親疎によって、コミュニケイションの難易度も定まってくる。ごく親しい人たち、たとえば家庭における家庭間の会話などは、ノイズが少ない。よくわかるから、メッセイジは省略的な形をとることができる。


送り手と受け手の距離はこういう物理的条件だけに規定されるのではない。心理的な距離が大きくものを言うこともある。


コミュニケイションに不可避のノイズに対する予防として、言葉には*冗語性(リダンダンシー)が発達している。