冗語性について

文学的表現は、どちらかと言えば、六法全書的であるよりも、親しい人に宛てた手紙に近い。冗語性は小さいのがふつうである。

自分は、誰にでも親しんでというよりは、相手中心に考えた方がよい。

ノイズは送り手と受け手の距離に比例して大きくなる。距離には、すでにのべたように物理的距離のほかに心理的距離もある。さらに物理的距離も、空間的と時間的とに分けられる。

一方的な感情では、共感はえられないのではないか。数年前に悩んだ、人と人の距離感なんかもみんな違いがあるから。


しかし、次に明るい兆しが。

ノイズが大きくなるにつれて表現はわかりにくくなるが、わかりにくいものが、ただちにつまらないと感じられるとは限らない。

ここに、私と主人との関係がある(笑)。

逆に、わかりにくくなると、かえって心をひかれることもある。近くにあるうちはさほどとも思わなかったものが、遠くに去ってしまい、あるいは、姿を消すと、急になつかしく思われだす。

人間は、実に身勝手にできている。
だから、親しくならないうちに、決めつけてあーだこーだ言わない方がいい。

古典的解釈、したがって、古典が可能になるのも、普遍的解釈、ひいては、普遍的美が成立するのも、きわめて大きな誤差を内包する異本によってである。

そういえば、うちの旦那は、わかんないもの同士なのに包容力だけはついてきたように思う(笑)。結局、形を張るのに諦めて、心を大切にしようということか。