「生も歓喜死も歓喜」の生命観

◇広布に戦いぬけば「生も歓喜、死も歓喜

私は米国ハーバード大学からお招きを受け、2回講演した(1991年と93年)。2回目の講演では、「21世紀文明と大乗仏教」という題で、「生も歓喜、死も歓喜」という仏法の生死観を語った。ハービーコックス学部長(当時)は「死に対する、今までとはまったく異なった観点を紹介してくれた」と評価してくださった。

「死」はすべての終わりではない。「生」も「死」も、永遠の生の一側面である。妙法に根ざした生と死は、永遠常住の大生命を舞台としたドラマなのである。

広布に戦いぬけば、必ず一生のうちに、絶対の幸福境涯を築き、固めていける。その人は、永遠に「生も歓喜、死も歓喜」という生命の軌道を進んでいくことができる。生まれてくる場所も地球だとは限らない。この広い宇宙には、生命が存在する惑星が数多くある。こう予測する研究者も少なくない。



法華経の宇宙観

法華経には壮大な宇宙観が展開されている。衆生の住する国土が数限りなく存在することが説かれているが、それは最先端の天文学の知見とも一致するのである。善人ばかりの星もあれば、地球のように、ずるい人間がたくさんいる星もあるかもしれない(笑い)。朝から晩まですばらしい音楽を聴きながら、健康で長生きして、ありとあらゆる喜びを感じながら暮らしていける星もあるかもしれない。

わが心の作用と、宇宙の作用とが合致して、自分の望むと通りの場所に生まれてこられる。これが仏法の真髄なのである。



◇「死生」は「睡眠と目覚め」のようなもの(戸田先生)

戸田先生は、妙法の死を睡眠にたとえられていた。「ぐっすり眠って(死)、翌朝元気になってはつらつと目覚める(生)ようなものだ。妙法を唱え抜いて亡くなった方は、死という休息をとって、すぐにまた生まれてきて、広宣流布の陣列に戻ってくる」



◇「臨終」について大聖人御書から

日蓮大聖人は御書の中で、臨終についてくりかえしくりかえし教えてくださっている。「妙法を唱える人の臨終は、何と喜ばしいことであろうか。一仏・二仏ではなく、また百仏。二百仏でなく、千仏までも来迎(らいごう) し、手を取ってくださるとは、歓喜の涙をおさえがたい」(御書1337-4生死一大事血脈抄、通解)

「あなたの御臨終の際、生死の中間(=生から死へ移る間)には、日蓮が必ず迎えにまいるであろう」(御書1558-3上野殿御返事、通解)「生きておられた時は生の仏、今は死の仏、生死ともに仏です。即身成仏という大事な法門は、これなのです」(御書1504-7上野殿後家尼御返事、通解)



◇生命の永遠性

私は若きころよりトルストイを愛読してきた。そのトルストイは晩年に「生きることが喜ばしく、死ぬことも喜ばしいのです」と綴っている。トインビー博士は仏法の生命観に深く共感されていた。世界の知性が生命の永遠性を感じているのだ。
http://d.hatena.ne.jp/kawamotoblog/20050905